以下は、梅田さんを支援する団体の方からいただいた情報です。
★ 金子 譲 さんから:
【Oneness TVアーカイブ:梅田隆亮さん提訴一周年記念企画
「すべての原発労働者の救済をめざして」(2013/3/30)】
元原発労働者、梅田隆亮さんが労災認定を求めて提訴してから一年を記念して福
岡天神で開かれた集会。http://t.co/5Cp7TAUhPB
梅田隆亮さん
1 はじめの挨拶
こんにちは,私は,梅田隆亮といいます。
本日は,大勢の方にお集まりいただき,大変感謝しております。
私は,昭和54年に,島根原発及び敦賀原発内で作業をしました。この原発作業が原因で,帰福直後には,「ブラブラ病」を発症し,平成12年には急性心筋梗塞で倒れ,生死の境を彷徨いました。
一命を取り留めた私は,平成20年9月18日,国に対し,療養補償給付支給を求め労災申請しましたが,不支給となり,この決定を不服として,平成23年2月19日に再審査請求をしましたが,認められませんでした。
そこで,昨年2月17日,福岡地方裁判所に対して,療養補償給付不支給の決定を取り消すための裁判を起こすことにしました。この裁判にかける思いについて,私は,第1回口頭弁論期日で意見陳述というかたちで述べさせていただいたのですが,本日はその意見陳述を踏まえて,私の思いをお話しさせていただきたいと思います。
2 経歴・原発内での作業について
私は,北九州市で生まれ育ち,北九州市内で配管業を自営で営み,新日鉄の下請けとして,鋼材の加工・組立工事や配管工事等をしてきました。
昭和54年当時は,いわゆる「鉄冷え」の影響で新日鉄の仕事が激減し,生活に不安を抱えていたところ,知人から松江で稼ぎの良い仕事があると聞き,知人の話に飛びつきまし た。この仕事というのが原発内での作業だったのです。
皆様は信じられないかもしれませんが,私は,松江で労働した場所が原発であることは,敦賀原発に行ったときに他の作業員から聞いて初めて気づきました。それは,島根原発では,放射性物質の危険性についての安全教育を受けたことが一切なかったからです。放射線管理手帳はそもそも支給されてもいません。アラームメータを持たされてはいましたが,警報が鳴った場合の指示すらなく,結局警報が鳴っても無視して作業を続けたような状態です。
敦賀原発でも,十分な安全教育を受けることはありませんでした。私は,炉心部近くで赤い作業服を着て,顔面をすっぽりと覆う全面防御スクを付けて作業しましたが,粉じんを吸わないためのマスクだとしか思っていませんでした。
原発施設内は,密閉状態でしたので,空気が淀んでおり,薄暗く感じました。
私が作業していた炉心部に近づくにつれて段々と熱気を帯び,汗がにじみ出てきました。炉心部は,室温が40度から50度あり,湿度も高く,蒸し風呂状態でしたので,中に入った瞬間,体中が火照った状態となり,体中から汗が滝のように大量に流れ出て,たちまち下着がずぶ濡れになりました。
全面防御マスクは付けているだけで酸素が薄くなり,息苦しかったのですが,さらに蒸し風呂状態の中でつけていたため,息苦しさが増し,すぐに意識が朦朧としてきました。その息苦しさは言葉では例えようがないほどつらく苦しいもので,1か月働いても全く慣れることはありませんでした。余計なことをすると体力が消耗するので,目の前にいる他の作業員に話しかけることもせず,ただこの場から早く立ち去りたい一心で作業ノルマをこなしていました。
しかし,体力に自信のあった私でもその息苦しさに長時間耐えることはできず,マスクを外して作業せざるを得ませんでした。持っていたアラームメータは炉心部に入ると,直ちに警報を発しましが,警報が鳴る度に作業を中断していては仕事にはなりません。そのため,線量の低い場所で待機している別の作業員にアラームメータを預けて作業することが暗黙の了解となっていました。
今にして思えば,放射線管理者の職員がいたはずですが,誰が放射線管理者なのかも私たちには分からず,アラームメータを預けても注意されることはありませんでした。そんな状況でしたから,保管されている被ばく放射線量のデータなどでたらめだと思います。
これが,我々下請け原発労働者の実態です。下請け原発労働者の労働環境は劣悪きわまりないものです。
3 体調の変化及び労災申請の断念 今回の裁判を通じて思い出したのですが,私は,昭和54年2月5日に島根原発に行き,作業中に腹痛を起こし,9日には北九州市に戻ってきています。今にして思えば,これも被ばくしたことが原因だと思っています。
それから,昭和54年6月,敦賀原発での作業を終え,北九州市に戻ってきてすぐに腹痛,全身倦怠感,脱力感,吐き気,めまい,耳鳴り,鼻血といった症状が出たのです。特に吐き気がひどく,今まで経験したことのないものでした。1日のうち,3~4回程度,突然胃がむかつき出し,胃液がこみあげてくるといった症状が,2か月近くも続いたのです。長年の肉体労働で体を鍛えており,人一倍健康には自信があったので,あまりの体調の急変に戸惑い,いくつかの病院を受診しましたが,はっきりとした原因は結局わかりませんでした。
その後,原発労働者の実態を書いた新聞記者の仲介で,長崎大学病院でホールボディーカウンター測定検査を受けたところ,放射性物質を被ばくしていることがわかりました。記者からは,帰宅途中,労災申請をするよう勧められ,私も労災申請を考えるようになったのです。
ところが,どういう訳か,検査後から,突然見知らぬやくざ風の男が自宅を訪れるようになりました。労災の件と言って私に面会を求めてきたのです。私の留守中は妻が応対していたのですが,妻は怯えきっていました。また,見知らぬ男から電話でドスのきいた低い声で「労災申請など馬鹿なことは考えるな」,「お前には中学生の子どもがいるだろ」と暗に息子に危害を加えるかのようなことも言われました。それ以外にも無言電話が頻繁にかかってくるようになりました。得体の知れない者からの脅しに恐怖心が募っていきました。妻や息子に危害が加えられるかもしれないと思うと恐くなり,耐えきれずこのとき労災申請を断念しました。
4 労災申請断念後,急性心筋梗塞で倒れるまで
労災申請断念後も吐き気や全身倦怠感,脱力感といった症状は続き,症状がひどいときは,医療機関で診察を受けたのですが,症状は改善しませんでした。
原発労働後,体調の異変により自分が責任を持って仕事をすることができなくなり,自営業を続けることは困難でした。そのため,体に負担の少ない土木工事アルバイトしかできず,しかも周囲の人からブラブラ病について理解されず,アルバイトも長続きしなかったために生活は徐々に困窮していきました。
思うように動かない自分の体に苛立つとともに周囲の人の無理解さに憤りを感じることもありました。また,私の収入だけでは生活ができませんでしたので,妻にはパートに出てもらい,義母の年金からの援助,義兄からの援助を受けて生活していました。このときは自分自身が本当に情けなく,とても辛かったです。
生活に困窮して北九州の家を失い,福岡市に転居して,福岡市内の会社に就職し何とか勤務していましたが,平成12年3月,急性心筋梗塞で倒れてしまいました。緊急手術を受け奇跡的に一命を取り留めましたが,もはや働けない体となり,生活はさらに困窮していき,その後はただ生きているという状態が続きました。
5 労災申請
それから数年経ち,長崎大学に昭和54年にホールボディーカウンターで測定した私のデータの詳細が残っており,コバルト,マンガン,セシウムなど,通常であれば人体からは検出されるはずがない放射性核種が検出されていたことがわかりました。
外部被ばくだけでなく,内部被ばくもしていたことがわかった上,生活を何とか立て直そうと思い,平成20年9月18日,労災の申請をしましたが,不支給の決定で,審査請求,再審査請求もいずれも棄却されました。 私はすぐにでも労災給付を受けられると信じていましたが,私の主張は全く認められず,本当に絶望しました。
6 私の思い
今回の裁判を起こすにあたっては,正直にいうと相当悩みました。
それは,また得体の知れない者から脅迫を受けるのではないかという恐怖があったからです。実際に,裁判を起こした後も嫌がらせの電話を受けました。
しかし,私は裁判を起こすことを決意しました。
まず,どうしても下請の原発労働者の過酷な労働実態を知ってもらい,原発労働により健康な体も財産もすべて失ってしまった私自身のつらさ・悲しみ・怒りについて,皆様にわかってもらいたいからです。
私は,原発に行くまでは,自分の収入だけで生計を立て,北九州市に自宅を建て,子どもにも恵まれ,人並みの幸せな生活を送っていました。しかし,原発労働によって何もかも失いました。原発労働のせいでそれまで築いてきた幸せな生活も健康で丈夫な体も失ってしまったのです。心筋梗塞後遺症等を患い,いつ起こるかもしれない狭心症の発作のために,薬を手放せない体になってしまいました。
原発労働,特に下請労働者の労働実態は,本当に過酷で劣悪極まりないものなのです。しかも,放射性物質の危険性など誰も教えてくれません。誰か1人でも放射性物質の危険性を教えてくれていれば,私は,こんな体にはなっていなかったはずです。それが悔しくて腹立たしいのです。
また,これ以上私のように辛く,苦しい思いを他の人にさせたくないという強い思いもこの裁判を起こす決意をした理由の1つです。
福島原発事故の収束にあたっている下請の作業員にアラームメータなどの計測器を持たせずに作業させていたとの報道がありました。私が原発で働いていたときから30年以上が経過していますが,全く変わっていません。未だに,下請け原発労働者に過酷な労働に強いられ,その安全が全く守られていません。本当に腹立たしい限りです。
日本に数多くの原発が存在する以上,多数の原発労働者が必要となり,そこで十分な安全対策がとられていない以上,これからも私と同じように多数の原発労働者に健康被害が出続けると思います。
私は,この裁判を起こすことにより,安全対策をないがしろにする国の姿勢に警鐘を鳴らすとともに,現に原発労働により健康被害を受けた方々の救済を図っていくための道筋をつけたいのです。
私は,先日の24日で満78歳となりました。もう高齢で体調も万全とはいえません。
昨年9月には,狭心症,陳旧姓心筋梗塞,慢性心不全などのために2週間ほど入院し,今年1月にも肺炎の症状で入院しました。
体調に不安はありますが,今後も頑張ってこの裁判を戦っていきたいと思っています。毎回私の裁判には多数の支援者が駆けつけ,法廷を埋め尽くしてくれています。
また,この裁判の弁護団は15名の弁護士の先生がなってくださっていますが,報酬ももらわず手弁当で一生懸命に弁護活動をやってくれています。
支える会の共同代表である石村先生が「原発なくそう!九州玄海訴訟」の原告であったことから,その弁護団に所属する池永修弁護士に声を掛けてくれて,私の裁判の弁護団が結成されました。「原発なくそう!九州玄海訴訟」は,1万人の原告を集めて裁判を行うとともに,反原発運動を盛り上げていくことを目的としている裁判だと聞いています。
私も,原発労働者の健康被害をなくすためには,原発を廃炉にしなければならないと思い,「原発なくそう!九州玄海訴訟」の原告になりました。原発をなくすために皆様も是非原告になっていただけたらと思っています。
このように私には数多くの支援者がついています。本当に心強い限りです。
私は,支援者の方々のためにも負ける訳にはいきません。これからも支える会及び弁護団と力を合わせて精一杯頑張っていきますので,代わらぬ支援をよろしくお願いいたします。
また,もしこの会場に過去に原発で作業された方で病気を発症されている方がいらっしゃれば,是非勇気を出して名乗り出てください。信頼できる弁護士が必ずや力になってくれると思います。
長くなりましたが,これで私の話は終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。 以 上
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集会アピール
本日,私たちは梅田隆亮さん提訴一周年企画として,「すべての原発労働者の
救済をめざして」に集まり,内部被ばくの危険性や被ばく労働の実態について学
びました。
放射能による被ばくは,ごく微量でも癌などの健康障害を発症させ,その人の
人生だけでなく,その子どもの未来にまで暗い影を落としていきます。
また,原発の定期点検という日常の作業ひとつをとっても,電力会社の正社員
は中央制御室にいて,現場は多くの下請労働者が担っており,原発1基の定期点
検だけで,実に3000名から4000名という膨大な人数の労働者による人海
戦術によって支えられています。その中には,梅田さんのように,吐き気や原因
不明の鼻血,めまい等の急性放射線障害とみられる症状のために,長期間就労で
きない身体にさせられた被ばく労働者も数多くいると思われます。
現に ,今も原発で働いている多くの労働者が非正規であり,また,一人親方
のような形態で働かされ,労災保険にも加入させられず,労災申請すらできない
状況にあると思われます。それは,これまで被ばく労働に従事してきた労働者が
数十万人もいる中で,被ばく労働に起因するとして労災が認められた数がわずか
十数名でしかないことに端的に表れています。
私たちの暮らすこの社会は,こうした労働者の命と健康の犠牲の上に成り立っ
てきたといって過言ではありません。私たちが享受してきた電気のある生活,こ
の相当部分がこうした私たちと同じ働く方々の命や健康と引き換えに成り立って
きたことを考える時,私たちは,もはやこの問題を他人事としてではなく,自ら
の差し迫った課題として受け止めるべきではないでしょうか。
私たちは,梅田さんのような被ばく労働者の悲劇を二度と繰り返してはならな
いこと,被ばく労働経験者の方々が今後,安心して暮らしていけるよう,労災申
請等の手続の支援をはじめ,私たちにできることをやっていくことを皆で確認し
合いました。
私たちは,全ての原発労働者の救済を目指して,ここに集会アピールとして,
宣言します。
2013年3月30日
梅田隆亮さん提訴一周年記念企画 全ての原発労働者の救済をめざして
参加者一同
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