Ⅰ、日本軍による性奴隷制の被害の歴史的背景
A、日本軍「慰安婦」制度創設から終結までの展開
1、第一段階:1932年~第一次上海事変:「慰安婦」制度の創設
1932年1月28日、日本軍の侵略事件をきっかけに日本海軍の陸戦隊が出動し、中国軍との間に武力衝突が起こった。2月、犬養毅内閣の閣議は陸軍の派兵を決め、現地の陸線隊
を含めて兵力は17000名に膨れ上がった。この第一次上海事変時、日本軍による強かんが多発したことに頭を痛めた岡村寧次上海派遣軍参謀副長は長崎県知事に要請して「慰安
婦団」を招いた 。このことは当時同軍高級参謀だった岡部直三郎の日記にも確認される。陸軍の開設は海軍に倣ったものであったことから、海軍は陸軍よりも早い時期に軍隊慰安所を開設していたと考えらている 。遅くともこの時期が、資料から確認させる日本軍慰安所の創設期と考えられている。1932年に日本は中国東北に「満州国」をつくりあげたが、1933年には慰安所(平泉に駐留する混成第14旅団)があったことが公文書で確認されている 。
2、第二段階:1937年~日中全面戦争:「慰安婦」制度の本格化
軍隊慰安所の設置が本格化していったのは1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中全面戦争に突入してからであった。特に8月13日に第二次上海事変が始まると日本軍の兵力は増大し、首都南京に向かって進撃していったが、12月13日の南京占領まで、あるいはその後も日本軍による強かんは跡を絶たなかった 。そのため軍は慰安所設置に本腰を入れ、拡大設置していった。1938年秋の漢口作戦、広東作戦が終了してからも戦争は膠着化し、日本軍は長期駐留することになるが、次第に慰安所は兵站によって設置された慰安所、部隊独自に設置したもの、不定期の移動慰安所、仮設慰安所など、慰安所の形態や実態は多様化していった。
3、当初、慰安所には日本「内地」から日本人女性や在日朝鮮人女性を集めて中国に送ったが「内地」からの徴集では足りず、次第に植民地の女性が「慰安婦」徴集のターゲットにされていった。当時、朝鮮は日本の植民地支配がもたらした貧困により日本国内や中国東北に渡る者も少なくなかったが、そうした生活困窮にあって「いい仕事がある」「金儲けができる」といった甘言や詐欺まがいの言葉や朝鮮総督府下の権力行使によって多くの若い女性たちが「募集」に応じ、あるいは連行された。また、植民地・台湾では、漢民族の女性への徴集だけでなく、現住民族の女性が台湾総督府の行政の末端を担当しいていた警官に連行されたケースもあった。一方、中国では、中国人女性を騙したり地元の有力者に供出させたり、或いは「妓院」から「妓女」を強制的に連行するなどにより地元の中国人女性を徴集した。慰安所が設置されない前線の部隊では、山西省盂県のように掃討作戦で中国人女性を拉致し、駐屯地に連行して連続的強姦をするといったケースも続発した。
4、1941年7月関東軍特種演習に際して、関東軍参謀原善四郎中佐は、「慰安婦」2万人を朝鮮半島から集めようと企てた。実際に事務処理を行った村上貞夫(関東軍参謀部第三課兵站班)が残した「手紙」(千田夏光氏所蔵)によれば実際に集まったのは3000人というが、軍が本格的に慰安所設置を展開する重要な転機であった。
5、第3段階:1941年~敗戦までのアジア太平洋戦争段階
1941年12月8日、アジア太平洋戦争が始まると南方軍とその傘下の日本軍は占領した東南アジア、太平洋諸島の各地に次々と慰安所を開設していった。1942年5月頃に南方作戦がほぼ一段落すると、占領地域は最も拡大していた。マラヤにおいてはマレ-戦の最中に慰安所が開設され、1942年2月15日にシンガポールが陥落するや当地に慰安所が開設された。フィリピンでは1942年5月12日に早くもパナイ島イロイロに慰安所が設置され、ビルマでは1942年5月1日のマンダレ-、8日のミ-トキ-ナ占領後まもなく慰安所が開設された。他にもインドネシア、アンダマン、ニコバル諸島、ラバウル、カビエン、サイパン、トラック、パラオ、グァム等、日本軍が占領した地域にはほとんど慰安所が開設されていった 。これらの占領地には、日本人女性や植民地から朝鮮人女性をはじめとして台湾人女性・中国人女性が連行され「慰安婦」にされただけでなく、占領地の女性たちも「慰安婦」にされたり、強かんされるなどなど被害を受けた。
6、以上、日本軍は第一次上海事変時を第一期とし、第二期の日中全面戦争開始以降、第三期のアジア太平洋戦争開始以降と戦線拡大に伴い慰安所設置と「慰安婦」徴集の規模を拡大していったのである。
B、「慰安婦」制度の歴史的背景
7、以上の「慰安婦」制度の背景には、台湾・朝鮮等への植民地支配、日本の近代公娼制度と植民地への導入と展開があった。第一に、日本の植民地支配がなければ、大量の朝鮮人女性・台湾人女性が「慰安婦」にされることもなかった。彼女たちが大量に「慰安婦」にされたのは、植民地経済政策がもたらした経済的貧窮、農村破壊・家族崩壊、支配の必要からの家父長制の温存・再編成、貧しい階級が教育を受けられない教育制度など構造的暴力があったからである。
8、第2に、当時の日本軍・日本政府が日本人女性なら支障があるが、植民地支配下の女性なら「慰安婦」にしてもかまわないという根深い民族差別意識があったからである。
9、第3に、日本の近代公娼制度は明治期になって欧州の公娼制度をモデルに再編成され、無産階級の日本人女性が組み込まれていった。天皇制国家・軍隊が朝鮮、台湾、「満州」などアジアへの侵略と植民地支配を推進していく過程で、日本の公娼制度がこれらの地域に移植され、しだいに植民地の女性たちが日本式公娼制度の底辺に編入された 。また、その展開過程で国境をまたがる人身売買ルートが確立された。また、日本政府は婦女禁売条約から植民地の女性を除外した。「慰安婦」制度発案の背景には、以上の状況があった。
Ⅱ、日本政府・軍隊における指揮命令系統
A、第一次上海事変(1932年初頭)からアジア太平洋戦争開始(1942年12月)まで
10、この時期に日本軍は中国の戦地・占領地(東北を含む)に慰安所を次々に作って行ったが、その方法は、派遣軍司令部・師団長・連隊長・大隊長などが慰安所設置を決定し、慰安婦を集めさせた。具体的な企画は各級部隊の後方参謀・副官などが行い、管理部などが実行に移した。判明している主な事例を挙げるとつぎの通りである。
A.1932年3月、上海派遣軍は上海で慰安所を作った。岡村寧次(おかむら・やすじ)参謀副長と岡部直三郎(おかべ・なおさぶろう)高級参謀が企画し、永見俊徳(ながみ・としのり)参謀が設置を担当した 。この責任は上海派遣軍司令官白川義則(しらかわ・よしのり)大将に及ぶ。
B.1937年12月、中支那方面軍は軍慰安所設置の指示を出した。これを受けた上海派遣軍は参謀第二課が企画案を作り、長勇(ちょう・いさむ)参謀などが設置を担当し
ている。この責任は、中支那方面軍司令官松井石根(まつい・いわね)大将に及ぶ。
C.1938年6月、北支那方面軍参謀長の岡部直三郎中将は、中国北部に展開している各部隊に対して慰安所を設置するよう指示した 。この責任は、北支那方面軍司令官寺
内寿一(てらうち・ひさいち)大将に及ぶ。
D.1939年5月、中国南部を占領していた第21軍は、自ら統制する「慰安婦」を1,400名乃至1,600に増加しようとした 。その責任は第21軍司令官安藤利吉(あんどう・りき
ち)中将に及ぶ。
11、慰安婦の徴募は、中国内の住民を徴募する場合、経理将校・憲兵などが担当した。
その方法は、かいらい政権や市町村支配者に徴募を「依頼」する方法がとられたが、この「依頼」は事実上の命令であった。判明している主な事例を挙げるとつぎの通りであ
る。
E.1937年12月、第10軍参謀寺田雅雄中佐は、中国湖州で、憲兵を指導して、中国人女性を集め、慰安所を開設した 。この責任は、第10軍司令官柳川平助中将に及ぶ。
F.1940年8月、中国湖北省董市付近の村に駐屯していた独立山砲兵第2連隊第2大隊は、地元の保長(村長)に女性たちを集めるよう「依頼」した 。無理やり集められた
女性たちは、性病検査を受けさせられると、びっくりして泣き出した。担当した軍医は「〔村の有力者から〕村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか」
と日記に記している 。この責任は独立山砲兵第2連隊長原田鶴吉(はらだ・つるきち)大佐に及ぶだろう。
12、朝鮮・台湾・日本で徴募する場合、現地軍が業者を選定して、その業者を派遣して集めさせるか、現地軍が朝鮮総督府・台湾総督府・内務省に依頼して集めてもらう方法がとられた。
G.前者について、その方法を陸軍省は承認していた 。
H.後者について、はっきり分かっている日本内地での徴募をみると、1938年11月、第21軍司令部は、中国南部に慰安所を作ろうと決意した。そこで、陸軍は内務省に依頼し、内務省は5府県警察に、業者を選定しその業者たちに計400名の女性たちを集めさせるよう指示している 。依頼したのは、第21軍参謀久門有文(くもん・ありふみ)少佐と陸軍省人事局徴募課長小松光彦大佐である。内務省では、本間精(ほんま・きよし)警保局長が各府県知事に指示している。また、第21軍は、台湾総督府にも要請し、台湾総督府は300名の女性を集めている 。この事例の責任は、第21軍司令官安藤利吉中将・陸軍大臣板垣征四郎(いたがき・せいしろう)中将・内務大臣末次信正(すえつぐ・のぶまさ)海軍大将・小林躋三(こばやし・せいぞう)台湾総督におよぶ。
この事例から、朝鮮・台湾でも、徴募は総督府が業者に行わせ、背後で総督府がコントロールしていたと思われる。
13、
I. 1941年7月、日本陸軍は、ソ連に攻め込む計画を立て、関東軍特種演習と称して「満州」のソ連国境付近に約80万の兵力を結集しようとした。この作戦は9月に中
止されるが、この作戦の主力となる関東軍は、朝鮮総督府に依頼して、2万の「慰安婦」を集めようとしたといわれている 。実際に集められたのは約3千名だったようだが、この責任は、関東軍司令官梅津美治郎(うめず・よしじろう)中将と南次郎(みなみ・じろう)朝鮮総督に及ぶ。
B、アジア太平洋戦争開始後から日本の敗戦まで
14、この時期には、日本軍は、慰安所設置・慰安婦徴募を中央が統制するようになった。陸軍では、陸軍省副官部・恩賞課などが担任した 。海軍では、海軍省軍務局・兵備
局が担任している 。
これは、朝鮮・台湾で慰安婦を集める場合も、総督府を通さず、朝鮮軍司令部・台湾軍司令部を通じて徴募するようになったということである。このことを示す主な事例をあげるとつぎの通りである。
J.1942年、東南アジア・太平洋の広大な地域を占領した南方軍は、各地に慰安所を作っていった。この内、ボルネオに慰安所をつくるため、南方軍司令部は陸軍省を通じて台湾軍司令部に50名の女性を集めるよう要請した。陸軍大臣の指示を受けて、台湾軍は1942年3月、三名の業者を選定し、この業者に50名の女性をさせた。そこで、台湾軍司令部、この業者と女性たちの渡航許可を陸軍大臣に申請し、陸軍大臣副官から許可をえている 。この責任は、南方軍司令官寺内寿一大将・台湾軍司令官安藤利吉中将・陸軍大臣東条英機(とうじょう・ひでき)大将(首相でもあった)に及ぶ。
以上から、日本軍の責任、とりわけ軍中央の責任は、1942年以降一層重くなったといえる。
参考)<陸軍の海外部隊指揮命令系統(1942年)>
┌─朝鮮軍(ソウル)
/参謀総長(軍令関係)\ ├─台湾軍(台北)
天皇─────────────────関東軍(長春)
\陸軍大臣(軍政関係)/ ├─支那派遣軍(南京)*
└─南方軍(サイゴン、のちシンガポール)
注1:支那派遣軍は、中支那派遣軍を中心にして北支那方面軍(北京)と第23軍
(広州)を指揮下におさめて、1939年9月に設置された。
注2:各派遣軍は天皇に直隷。軍令(作戦)関係=参謀総長、軍政関係は陸軍大臣
の区処(指示)。軍慰安婦関係は、各派遣軍の参謀部(とくに後方参謀)が担当。
[出典:吉見義明・林博史編著『共同研究 日本軍慰安婦』大月書店、1995年。
19頁]
C、日中戦争の全面化(1937年)から日本の敗戦までの期間を通じて
15、陸軍の場合、軍紀風紀の維持という点から陸軍省兵務局が、性病蔓延防止という点から陸軍省医務局が、それぞれ慰安所の設置・運営に関与している 。また、陸軍省経理局と陸軍需品本廠はコンドーム・予防薬の供給という点から関わっている
。
16、慰安婦制度が軍性奴隷制度であるにも関わらず、日本軍はトップから末端までこの制度に反対せず、次々に慰安所を設置していった。慰安所を作れという指示は出されたが、戦局の悪化を理由とするケースやスマラン事件(オランダ人女性を慰安婦とした)のケースを除いて、廃止せよという指示は出されなかった。
17、慰安所設置の背景として、戦場での兵士の生活環境・待遇の劣悪さ、極端な人権無視があった。その結果として、抑圧された兵士の感情は、戦地・占領地住民に対して暴発する。それは、とりわけ女性に対する暴行・強姦として現れた。これは、中国・フィリピン・インドネシアなど日本が占領した各地で共通していた。そのような事実を知りながら、日本軍中央はこれを防止する積極的な方策をとらなかった。陸軍刑法では、1942年に改正されるまでは、戦地での強姦は、略奪とともに行われる場合でなければ、追及されない規定になっていた 。また、憲兵の数が少ないため、強姦事件が摘発されることはまれであった。摘発された場合でも、ほとんど一般刑法が適用されることとなったが、これは親告罪であったため、摘発をおそれる兵士は、強姦した女性を殺害
ることも少なくなかった。
18、それだけではなく、現地軍は、兵士の抑圧された感情・憤懣が上官にむけられることを防ぐために、その感情・憤懣が戦地・占領地に住む女性たちに向けられることを黙認し、ある場合にはそのように誘導した 。
附:「慰安婦」の総数について(朝鮮人・中国人・台湾人・フィリピン人・インドネシア人・日本人など全ての「慰安婦」含む総数)
現状では、明確な数を示すことは困難。きわめて大雑把な計算を以下に示す。
Ⅰ.最低限の見積もり。
① 陸軍は、上から補給する「慰安婦」数について、兵100名につき「慰安婦」1名という基準を持っていた。②海外に派遣された陸海軍兵員は最大時350万だったが、最
前線には「慰安婦」がいない場合も少なくなく、最前線でなくても「慰安婦」のいない部隊もあった。そこで、基準となる兵員を300万とする。③「慰安婦」の交代率を推計するのは困難だが、1・5と推計すると、
3,000,000÷100×1.5=45,000。
この他に、軍中央・方面軍司令部・軍司令部が把握していない「慰安婦」を加えれば
約50,000となる。これが下限となろう。
Ⅱ.最大限の見積もり。
①業者が「売春」業の理想の数として考える、男30人に女1人という基準がある。現実にはありえない理想の数字だが・交代率を2とする。
3,000,000÷30×2=200,000
これが最大となる。一定期間監禁レイプされたケースを加えると、5万よりずっと多くなると思われる。*20万部分←削除に注意
Ⅲ、公訴事実
A、日本人「慰安婦」上田庸子(仮名)らの性奴隷化
被告人:牛島満(第32軍司令官)
本郷善夫(第62師団長)
長勇(第32軍参謀長)
20、少なくとも1944年8月から1945年6月までの間、被告人牛島満は沖縄守備軍第32軍司令官、被告人本郷善夫は第32軍所属の第62師団(石兵団)師団長の地位にあったものであるが、被告人らは共謀の上、1944年夏ごろある部隊の副官をして那覇警察署に対し慰安所設置を要請させ、かつ、那覇市内にあった辻遊郭の管理事務所に対し辻遊郭で働いていた尾類(読み方は「ジュリ」、芸娼妓の意)を「慰安婦」として徴集することを命じさせるなどの方法により、辻遊郭で働いていた約500名の尾類を那覇市内に合計15箇所あった「慰安所」において「慰安婦」として働かせ、もって、第27野戦防疫給水部に設置された「慰安所」において「慰安婦」とされた被害者上田庸子(仮名)を含む約500名の女性を性奴隷化したものである。
21、被告人長勇は、少なくとも1944年8月から1945年6月までの間沖縄守備軍第32軍参謀長の地位にあったものであるが、1945年4月1日の米軍による沖縄
本島上陸侵攻開始後、芸者十数名及び尾類十数名を、首里から移動した第32軍司令部本部のうち軍首脳部が駐屯していた洞窟に収容し、かつ、軍首脳部専用の「慰安婦」として働かせるよう命じてこれを実行させ、もって、芸者十数名及び尾類十数名を性奴隷化したものである。
22、上述のある部隊の副官が、辻遊郭の管理事務所に対し辻遊郭で働いていた尾類を「慰安婦」として徴集することを命じた直後、那覇警察署に尾類からの廃業願いが殺到した事実には、尾類として春をひさぐことと「慰安婦」として性奴隷とされることが根
本的に異なる事態であること、前者となることを受け入れた女性も後者となることは断固として拒否しようとしたことがはっきり表れており、もともと遊郭にいた女性もまた性奴隷化の罪の被害者に他ならないことが明らかである。
B、日本人「慰安婦」沢田紀子(仮名ら)らの性奴隷化
被告人:小林躋三(台湾総督)
近藤信竹(第五艦隊司令長官)
安藤利吉(第21軍司令官)
加藤恭平(台湾拓殖株式会社社長)
森岡二朗(台湾総督府総務長官)
有田八郎(外務大臣、平沼騏一郎内閣)
23、1939年2月の日本軍による海南島(Hainandao)攻略・占領当時、被告人近
藤信竹は日本海軍第五艦隊司令長官、被告人安藤利吉は日本陸軍第21軍司令官、被告人有田八郎は外務大臣であったが、上記被告人3名は、同年同月ころ陸・海軍及び外務
省の代表をして三省連絡会議を行わせ海南島の占領政策を立案させた際、共謀の上、占領政策の一部として「慰安所」の設置を計画し、同年3月、海軍第五艦隊司令部所在地であった海口(Haikou)の海軍情報部長をして、被告人加藤恭平を社長とする台湾拓殖株式会社(以下、台拓という)に対し「慰安所」建設を依頼させ、もって、被害者沢田紀子(仮名)を含む多数の女性を性奴隷化するに不可欠の決定をし、かつこれを実行に移すよう命令し、その後台拓が上記依頼に応じて海南島内に多数箇所の「慰安所」を建設したことにより上記被害者沢田を含む多数の女性を性奴隷化したものである。
24、1939年4月ころ、被告人加藤恭平は台拓社長の任にあったものであるが、当時台湾総督であった被告人小林躋三及び被告人台湾総督府総務長官森岡二朗と共謀の上、被害者沢田紀子(仮名)を含む「特要員」(慰安所経営3名、芸妓4名、酌婦7名、仲居2名、料理人1名、雑役2名)を海軍第五艦隊司令部所在地であった海口の「慰安所」に移送し、もって、被害者沢田を含む少なくとも11名の女性を性奴隷化したものである。
25、なお、日本軍・日本政府の指導者層にとっては、慰安所制度によって強姦の多発による抗日感情激化の防止、性病の蔓延による戦闘能力の低下の防止、兵士のストレス解消による士気の向上、戦地の地元女性との交流による情報漏洩の防止等の目的を達成することと同時に、日本人女性中のいわゆる「良家の子女」が慰安所に「慰安婦」として赴くことを防ぎ、日本軍兵士予備軍としての健康な日本人男子(「赤子」)を産む女性を確保することもまた必要であった。近代日本の公娼制度は貧困層の女性を主な供給源としており、①公娼出身の女性が「慰安婦」として徴集されるケースは、②貧しい農山村の女性たちが口減らしのために女衒や業者に身売りされたケース、③同じく貧困層
の女性が日本兵の「身の回りの世話」やタイピストの仕事をさせる等と騙されて「慰安婦」にされたケースと並んで、日本人女性が「慰安婦」として長期にわたる反復的な性
暴力被害を受ける代表的なケースであった。公娼出身の日本人女性、貧困層の日本人女性は、日本軍・日本政府の首脳の目から見れば、専ら日本兵らに快楽を提供することを
期待され、「産む姓」としての役割を果たすことを期待されない存在であった。その意味で、交戦国、占領国の女性であれば誰でも日本軍による戦時性暴力の被害者となり得たのと同様に、公娼出身の日本人女性、貧困層の日本人女性であれば誰でも、日本軍による戦時性暴力の被害者となり得たのである。
C、被害6カ国以外の被害国・被害地域の女性の性奴隷化
26、日本軍は占領地のほとんどすべてで慰安所を設置した。今日までにさまざまな史料によって確認されている限りでは、上記の6カ国・地域及び日本を除いて、マレーシア、シンガポール、ビルマ、ベトナム、タイ、インド(アンダマン・ニコバル諸島)、パプア・ニューギニア、米領グアム、ミクロネシア、メラネシアなどの太平洋諸島に広がっている。ラオス、カンボジアは確認されていないが慰安所があった可能性は高い。
慰安婦にされた女性の出身地で言えば、上記の地元女性だけでなく、オランダ人やユーラシアンも慰安婦にされた 。これらの地域は南方軍が攻撃占領を担当した地域である。
27、ベトナムは1940年9月に日本軍が北部に進駐し、その直後にインドシナ派遣軍司令官西村琢磨中将が慰安所を急いで作るように参謀長と話しており、東南アジアで最初に慰安所が設置されたようである。
28、太平洋戦争が開始されてから、1941年12月にはマレーシア(当時は英領マラヤ)のアロースターで、1942年1月にはタイのハジャイとシンゴラに慰安所が開設されてい
る。さらに1942年2月にシンガポールを占領した直後にシンガポールにも慰安所が開設された。マレー半島で慰安所が設置された都市は24都市が確認されている。クアラルンプールだけでも7ヶ所に16軒が確認されており、そこに入れられた慰安婦をエスニックグループ別に見ると、最も多いのはマラヤの中国人、ついで朝鮮人、タイ人、ジャワ人、インド人、マレー人と中国人の混血、などだった。
29、マレーシアのネグリセンビラン州のクアラピラでは1942年3月ごろ日本軍が町の治安維持会の幹部に女性集めを命令した。命令された幹部は18人の中国人女性を集めて日本軍に渡し慰安婦にさせられた。ちょうどこのとき、日本軍はこの地域で抗日的と見なした中国人の村民を皆殺しにするなどの粛清作戦をおこなっており、そうした残虐行為と慰安婦集めとが並行しておこなわれた。
30、クアラルンプール郊外に住んでいた当時16歳の女性の証言(匿名)によると、家にやってきた日本軍は兄と彼女を連行し、兄は二度と戻ってこず、彼女は繰り返しレイプされた後に慰安婦にされた。
31、東南アジア地域では、町村や治安維持会に慰安婦を集めさせたり、時には拉致したり(フィリピンに多い)、事務員や看護婦の仕事だからと騙して集めるなどさまざま
な手段を取っている。当初は軍の兵站が慰安所設置をおこなっていたが、各部隊も独自に慰安所を開設した。途中から軍政機関が慰安所の管理にあたった。
32、インドネシアでは民間人の抑留所に収容されていた若いオランダ人女性をピックアップし200~300人を慰安婦にした。またオーストラリア看護婦32人がスマトラのパレンバンで将校の慰安婦になるように脅されたが拒否し、赤十字を通じて抗議したのでその後はそうした脅迫がなくなった 。日本軍はオランダやオーストラリア女性のケースでは形式的ではあるが慰安婦になることについて本人の同意を得ようとしたが(詐欺同様ではあったが)、アジア女性に対してはそのような配慮は一切しなかった。
33、東南アジア・太平洋地域では日本軍慰安婦の多くが、地元女性だったと推測される。また将校などの愛人にされた女性も多い。元慰安婦の支援組織があるフィリピンとインドネシアを除いて、彼女たちは名乗り出ることもできないままに放置されているのが現状であり、彼女たちの心身に受けた傷の深さは想像に絶するものがあるだろう。
D、被告人昭和天皇ヒロヒト
34、被告人昭和天皇ヒロヒトは、践祚した1926年末以降1945年8月の日本の敗戦時まで大日本帝国の元首にして統治権の総攬者である(大日本帝国憲法4条)とともに陸海軍の統帥権者として(同11条)、日本軍の総司令官たる大元帥の地位にあって、
(2)いわゆる15年戦争の始まる1931年前後ころから、軍部が提供する軍事情報と自らの戦略判断を基礎に戦争指導・作戦指導を行い、
(3)とくに1935年の国体明徴運動(いわゆる天皇機関説事件)の翌年勃発した二・二六事件にさいしては、躊躇する陸軍指導部を督励して率先これを鎮圧して大元帥としての権威を高め、
(4)翌1937年の盧溝橋事件発生、同年8月上海への戦火拡大、11月大本営設置、12月南京占領という対中国全面戦争の展開および1941年12月8日以降の対米英戦争の過程において大元帥として主体的にかかわり、陸海軍統帥部ないし大本営に対する戦争指導・作戦指導を行うさい、これら指導機関をして日本軍に対し国際法に合致した作戦命令を発せしめるべき立場にあったものである。
a、南京大レイプについての責任
[事実と適条]
35、上記のような立場にあった被告人昭和天皇ヒロヒトは、1937年12月13日から
1938年2月頃までの間、中国・南京市において、中国との戦争における日本軍の総司令官は、自己の統帥する南京攻略戦に参加した部隊の兵士らが、前述の楊明貞を含む膨大な人数の非戦闘員たる中国人女性に対して、広範囲かつ長期間にわたり、反復的かつ継続的に強かんし、そのうち多数名を強かん後殺害し、殺害にいたらなかった被害者らに対しても、性器の損傷、抵抗した際に受けた攻撃による負傷、今日もなお癒えることのないPTSDなどの重篤な障害を与えるなどの結果を招来した行為および数万人単位で
非戦闘員たる中国人を虐殺し、かつ中国人の資産や家屋に対して略奪、放火などの重大な犯罪を犯すのを放置し、麾下部隊の行動を規制すべき総司令官としての義務を解怠した。
すなわち、被告人天皇ヒロヒトは、これにより人道に対するを侵犯したものである。
[検察官の主張]
36、膨大な人数の非戦闘員たる中国人女性に対する上記強かん行為等を含むナンキン
・アトローシティズは極めて広範囲かつ長期間にわたり、反復的かつ継続的に敢行され、世界の耳目を聳動させるにいたった重大犯罪行為群であったのであるから、これらの行為に関して、もし被告人Hが総司令官としての責任に合致する何らかの努力をしていたとすれば、あるいは皇族や部下からの直接の戦況報告により、あるいは報道によ
り、あるいは欧米人ジャーナリストが全世界に向けて行った報道内容を意に介した大本営からの報告などによって、これらの犯罪を当然知るにいたっていたはずである。自ら
の統帥する南京攻略戦参加部隊の兵士らが非戦闘員たる女性に対する広範囲かつ長期間にわたる反復的かつ継続的な強かん、非戦闘員に対する殺害やその家産にに対する略
奪、放火などの戦時法規違反行為を行わないよう統制すべき義務を負っていたにもかかわらず、これを怠ったことは、アメリカ Military Commission のマニラ軍事法廷における山下裁判以降国際的に確立されている「司令官の責任原則」に照らし国際法の侵犯である。
b、慰安所ケースについての責任
[事実と適条]
37、上記のような立場にあった被告人昭和天皇ヒロヒトは、遅くとも1932年の第一次上海事変ころから1945年8月の敗戦まで(台湾については同年末ころまで)の間、ア
ジア太平洋地域において、中国および連合国との戦争における日本の総司令官は、別表および添付図面(いわゆる「慰安所」マップ)に記載のとおり極めて広範囲かつ組織的に設置運営されたいわゆる「慰安所」に収容の朝鮮、台湾、中国、フィリピン、インドネシアなどを出身地とする極めて膨大な数に上る女性に対して日本軍将兵らのための性奴隷化するのを許し、麾下部隊の行為・業務を規制すべき総司令官としての義務を解怠した。
すなわち、被告人天皇ヒロヒトは、人道に対する罪を侵犯したものである。
[検察官の主張]
38、いわゆる「慰安所」は、1932年の第一次上海事変当時日本軍兵士らによる強かんが多発し、これによる抗日感情激化を防ぐために日本軍が兵士らによる強姦を抑止するべく設置したことに端を発し、1937年の対中国全面侵攻とともに本格化したものであるが、侵略戦争の急激な戦線拡大の大規模さや1945年の敗戦までにアジア太平洋地域の最前線の部隊にまで「慰安所」を設置したことにみられるその広範性、組織性からして、その存在について軍関係者の目を覆うことは不可能であった。現に被告人天皇ヒロ
ヒトの二弟高松宮はその日記に「慰安婦」のことを記述している。被告人自身も戦争の長期化による軍紀の頽廃、治安維持の問題化を口にしており、その対策の眼目である
「性的慰安施設」のことを当然知っているものと推認される。
39、これらについて、被告人天皇ヒトヒトが総司令官としての責任に合致する何らかの努力をしていたとすれば、前記のとおり侵略戦争の戦線拡大の大規模さ・急激さから見て、また、1945年の敗戦までにアジア太平洋全域において最前線の部隊にまで「慰安所」を設置するためには、強制、威圧、脅迫、欺瞞、誘惑等の方法をも用いて女性を徴
集しなければならないこと、徴集された女性たちは連日意に反して多数の兵士らとの間で性行為を行うことを強制されるであろうこと、女性たちは戦線の移動とともなって軍隊や軍需物資とともに強制的に移動させられるであろうこと、換言すれば「慰安所」の実態が国際人道法上違法な性奴隷制そのものであることは、容易に予見し得た筈である。
40、しかし、被告人天皇ヒトヒトは、国際人道法上違法な性奴隷制そのものである「慰安所」の実態を知るべき義務があったのにこれを怠ったか、上述のように「慰安所」の実態が国際人道法上違法な性奴隷制そのものであることを知っても、強かんの多発による抗日感情激化の防止、性病の蔓延による戦闘能力の低下の防止、兵士のストレス解消による士気の向上、戦地の地元女性との交流による情報漏洩の防止などの、総じて戦力維持目的のためには、性奴隷制そのものである「慰安所」を日本軍が設置することもやむを得ないと考えたか、いずれにせよ、日本軍が性奴隷制そのものである「慰安所」を設置し、日本軍が強制、威圧、脅迫、欺瞞、誘惑等の方法をも用いて女性を徴集し又は民間業者をして徴集させていたのを阻止すべき義務があったのにその義務を怠り、1945年の敗戦までにアジア太平洋地域の膨大な数の女性たちをが継続的に「慰安
婦」として性奴隷化されるがままにし、また敗戦時には上記女性たちに対して帰還させる責任があったにもかかわらず、これを放置したものである。
41、なお、統帥権の総攬者にして日本軍の総司令官たる大元帥であった被告人天皇ヒ
ロヒトの立場、及び、「神」にも等しかった被告人の当時の日本軍将兵らにとっての精神的位置づけに鑑みれば、被告人天皇ヒトヒトが「慰安所」の廃止を決意しさえすれば、「慰安所」の廃止は可能であった。また、「慰安所」において踏みにじられた女性たちの人権侵害の結果の重大性に鑑みれば、日本軍が性奴隷制そのものである「慰安
所」を設置し、日本軍が強制、威圧、脅迫、欺瞞、誘惑等の方法をも用いて女性を徴集し、又は民間業者をして徴集させていたのを阻止すべき義務を怠ったものであり、国際法上重大な違法性がある。
別表 「慰安所一覧表」 内容略
朝鮮
中国
台湾
フィリピン
インドネシア
マレーシア
ビルマ
ベトナム
インド領アンダマン諸島、ニコバル諸島
パプア・ニューギニア(ラバウル、カビエン)など太平洋の他の島々
南洋諸島のサイパン、トラック、パラオ、米領グアム
沖縄
日本国内
図面(いわゆる「慰安所」マップ) 略
Ⅳ、日本政府の国家責任の背景となる事実
A、真相究明の不十分さ
42、1945年8月15日、日本政府はポツダム宣言を受諾して無条件降伏したが、宣言1
1
条は戦争犯罪人の処罰を規定していた。この前後に、閣議決定にもとづき政府や軍の公文書が大量に焼却された。まず陸軍では、降伏決定の直後に参謀本部および陸軍省から
全陸軍部隊に対し機密書類焼却の通牒がだされ、管轄外の衆議院や新聞社などにも秘密会議の速記録や捕虜関係の写真を焼却するよう圧力がかけられた。海軍でも同様なこと
が行われた。内務省も公文書の焼却を決定し、原文兵衛(後参議院議長、アジア助成基金理事長)、奥野誠亮(後衆議院議員、文部大臣、自治大臣)、小林与三次(後自治省次官、読売新聞社社長)らが手分けして地方の自治体、警察などに伝達した。それは明らかに戦
後の戦犯裁判を強く意識し、証拠隠滅を図るものであった。これら戦争犯罪資料の破棄・隠匿等の行為は、降伏によって日本が引き受けた国際義務違反にあたる疑いが強い。(以上に関しては、前掲吉田<意見書>参照のこと)。
43、とくに「慰安婦」、七・三一部隊などについて日本政府は戦後長くその存在すら
認めず真相究明の努力を怠ってきた。七・三一部隊については現在でも基本的な公文書の存在すら否定している。「慰安婦」についても国際世論に押されてようやく1992年に日本政府は公式調査を約束した。第1回調査結果の発表の際には「政府の関与」を否定し、1992年8月の第2回調査結果の発表で、ようやく政府は軍や官憲の関与と「慰安婦」の徴集・使役での強制を認めた。
しかし政府発表には軍の果たした役割などについてはあいまいな点があり、また当時関係資料がないとして政府が調査しなかった警察や厚生省や大審院から後に重要な資料が発見された。これらの発見は民間の調査や偶然によるもので、日本政府は現在でも真相究明に熱意を示さず、多数の未公開資料・未整理資料の存在が防衛庁防衛研究所図書
館等にあることは確実視されている。
B、被害者への謝罪・補償・処罰義務の不履行
44、日本政府は、故意に虚偽、歪曲の言辞を操り、被害者らの地位を公然と否定する宣伝を、広範に反復・継続的に行って、被害者らの名誉を著しく傷つけてきた。たとえば、国会に於いて、「従軍慰安婦」に対する軍の関与を否認し、「業者が連れ歩いた」などと事実関係を否定する言辞がある。さらに、被害者の法的な地位に関わる、日本政府関係者による否定的言辞と政策は、執拗に被害者を傷つけ続けてきた。具体的には、条約の抗弁を繰り返し、処罰義務と被害者への補償義務を無視し、「民間基金」(1995年8月に発足した「女性のためのアジア国民基金」)による「解決」を被害者に押し付けようとしてきた。しかし、「民間基金」による対応は、道義的責任を果たす方法としてであれば、一つの方法だが、国家が法的責任を果たすための適切な対応とは認められない。日本政府が果たさなければならない法的な責任は、今も残っているからである。日本政府が「慰安婦」問題に関する何らの法的責任もないとする主要な根拠である、「条約の抗弁」は、以下の理由に基づき、理由がない。
45、第1に、日本は、国際法によって禁止された犯罪を処罰する義務があるのに、その義務を怠り続けている。この日本の処罰義務を解除するような多国間、2国間条約は存在しない。日本は、条約によって処罰義務問題を解決済であると抗弁できない。これら処罰義務には、時効がない。処罰義務違反の場合には、違反した国家が賠償責任を負
う。日本は、「慰安婦」被害者が被った損害について、不処罰を原因とする賠償義務を負っている。
46、第2に、中国との間の1972年の平和処理に際し、日本は、中国が個人被害者の請求権を放棄しないことに合意した。したがって、サンフランシスコ平和条約14条(b)
にもかかわらず、同条約26条により、サ条約加盟国の国民について個人被害者の請求権放棄がなかったものとしなければならない。したがって、条約によって被害者個人に対する補償問題が解決したとはいえない。(以上に関しては、戸塚悦朗意見書参照)
C、被害者のPTSDの悪化の放置
47、慰安所や「強姦所」に入れられた被害者たちは、性暴力被害ゆえに他の戦争犯罪
とは異なる身体的・精神的被害を受けてきた。被害者は特定の場所に監禁され、長期にわたり継続的に多数の兵士による強姦を受け続けた。恒常的な性暴力による身体的な被
害は大きく、多数の病死者が出たが、生き延びた女性たちにも性病を始めとする病気や健康障害、不妊症が多くみられる。動悸や頭痛、身体の痛み、胃腸障害などが訴えられている。
48、人は二度と立ち直れないかと思うほどの激しく苦痛を伴う出来事を体験する
と、それらが心理的外傷(トラウマ)となって、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を引
き起こす。現地での自殺や精神障害は生還した「慰安婦」によって報告されているが、
生還者には強度のPTSDがみられる。元「慰安婦」の証言、民事裁判の訴状にある被害の実情や本人尋問、国連・人権委員会や国際公聴会での証言など では、被害者自身がその
症状を訴えている。症状の重さは、クリスティーナ・R・ゲイツによるフィリピン裁判の原告30人、三橋順子によるフィリピン裁判の原告2人 、桑山紀彦による中国山西省の「慰安婦」裁判の原告6人 に対する診断結果で明らかにされている。10代に受けた激
しい性暴力は児童虐待の側面も強く、50年以上たっても多くの被害者が強い不安と不眠、恐怖、抑鬱傾向に苦しんでいる。
49、これら精神科医の診断では、PTSDからの回復の遅れが指摘されている。その背景には、性暴力被害が被害者本人や「家」の恥とされ、「汚れた女」という烙印を押される家父長制社会で、被害を訴えることもできず、周囲のケアや支援もなく、自己を肯定し幸福を追求する権利を奪われ、苦しみを背負ったまま沈黙し続けてきたことがあげられる。被害者たちによる自傷行為や子どもへの発作的な暴力など、PTSDの影響が次世代にも及ぶことを示す診断もある 。
このように深刻な精神的被害の回復には、被害者の安全を確保したうえでの証言の収集、加害者の謝罪や損害賠償、処罰等が不可欠である。しかし日本政府は被害者からの告発があっても一貫して法的責任を否認し、真相究明や被害者の救済を行わず、PTSDを放置してきた。このため被害者の精神的損害は倍加され、PTSDは今も継続している。
Ⅴ、日本国の国家責任の原因となる事実
50、被告人天皇ヒロヒトが当時の日本国の統帥権の総覧者にして日本軍の総司令官
た
る大元帥であったことをはじめ、上記各被告人はいずれも日本国の軍隊の幹部的地位にある構成員あるいは政府の吏員であった。
51、1945年8月15日の無条件降伏前後、陸軍参謀本部及び陸軍省から全陸軍部隊に対し機密書類償却の通牒が出され、また、海軍から全海軍部隊に対し、内務省から各地方自治体及び警察に対し、それぞれ同様の公文書焼却命令が出され、日本国は国ぐるみで戦争犯罪の証拠隠滅を行い、真実発見及び真相の公表を不可能または著しく困難にせしめた。
52、被告人天皇ヒロヒトをはじめとする上記各被告人は、本来、東京裁判当時ジェン
ダーの視点からの戦時性暴力に対する訴追ないし処罰が十分でなかったことが認識された時点において可及的速やかに、(少なくとも、戦後55年を経過した今になって本女性戦犯法廷において訴追されるより前に)、日本国内の裁判所において刑事被告人として訴追され、然るべき刑罰に処せられるべきであった。しかるに、日本国は、かような訴追・処罰義務を今日に至るまで怠り続けている。
53、日本軍による戦時性暴力の被害者らの多くは、PTSDという精神的後遺症に今
なお苦しめられ続けている。被害者らのこの精神的後遺症は、日本国政府が歴史的事実とこれに対する自らの法的責任を認めて謝罪し、然るべき慰謝の措置を講ずることによる軽快の余地を残しているが、日本国政府は今日に至るまで、謝罪も然るべき慰謝の措置も行っていない。それどころか、被害者らのこの精神的後遺症は、日本国政府の閣僚
や国会議員らによる歴史的事実の否認ないし歪曲、責任の否定の発言や、損害賠償等請求訴訟の審理における被告国の代理人の主張、さらには、国の機関である裁判所における判決が被告国の法的責任を否定し続けていることなどにより、今日もなお増悪の一途をたどっている。自ら記した回顧録の中でインドネシア駐留時代の慰安所設営への関与に言及している中曽根康弘氏が日本国の首相にまでなったことや、「慰安婦」の被害が広く認識されるようになった後もその中曽根氏が「慰安婦」被害の救済へ向けた行動を
何らとろうしていないことなども、戦時性暴力の加害者と被害者にとって戦後の道のりが全く異なるものであったことを被害者らに思い知らせ、被害者の心を深く傷つけてい
る。
54、日本国政府は、被害者らのトラウマの原因行為者(加害者)であり、したがって
被害者らの深刻な精神的後遺症を発見しその治療ないし解消に努めるべき義務(救済義務)を負っているにもかかわらず、戦後五十余年の長きにわたりこの義務を怠り、被害者らの深刻なPTSDを放置したばかりか、加害の事実を否認し、歪曲し、あるいは黙殺し、更に、これに対する責任を否定することによって更にその症状を増悪させたものである。このような救済不作為(救済義務を負う者が救済を怠ること)は、日本国の軍隊の幹部的地位にある構成員あるいは政府の吏員が戦争当時に犯罪を行ったことに基づく日本国政府の責任とはまた別に、戦後の新たな不法行為として、日本国政府に国家責
任を発生させる。
55、日本国は、自国の軍隊の幹部的地位にある構成員あるいは政府の吏員による上記のような不法行為(刑事犯罪を構成するのであるから、民事上不法行為を構成するのは当然である)によってもたらされた損害からの現状回復の一環として、賠償を行うべき法的義務を負うにもかかわらず、今日に至るまで一銭の損害賠償も行っていない。なお、女性のためのアジア国民基金は、日本国の法的な損害賠償責任を否定することと引換にしてはじめて金員を給付するものであり、かつ、見舞金は損害賠償金の性質を有し
ておらず、同基金が民間に設立されたことによっては、日本国の損害賠償責任が果たされたものとは言えない。
56、日本国は、上述のようにすでに発生した戦争犯罪、人道に対する罪の真相発見や公表義務、責任者の訴追・処罰義務すら果たしていないのが現状であり、ましてや、将来において上述のような戦争犯罪、人道に対する罪が再発しないために必要な措置をとっているとはとうてい言えない。
Ⅵ、日本政府が果たすべき国家責任の内容
57、上記パラグラフ50~56から生じる日本国の国家責任は、被告人として訴追された日本軍の幹部的構成員らや政府の吏員らによる犯罪のもたらした被害女性の人権侵害の重大性、さらには総体としての被害の想像を絶するほどの甚大性に鑑みれば、あたかも、従前のラッセル法廷においてアメリカ合衆国が、ベトナム戦争という人道に反する態様の侵略戦争について国家として有罪を宣告されたと同様、日本国そのものが国家
として、アジア太平洋地域における先の侵略戦争とその中で発生した膨大な戦時性暴力被害に対して有罪を宣告されるに値するほど、深刻にしてかつ重い。
日本国は、そのような深刻にしてかつずしりと重い国家責任を遅蒔きながら果たすべく、以下の措置をとらなければならない。
58、先の侵略戦争中の戦時性暴力被害の全貌を明らかにするための真相解明機関を設置し自ら真相解明作業を行うべきであるほか、政府の管理下にあるすべての戦争犯罪関連資料を速やかに公表して民間の手による真相解明の一助とすべきである。
59、生存している上記被告人らを、日本国の検察官によって訴追し、日本国の裁判所
の判決によって死刑を除く然るべき刑罰に処するべきである。
60、被害者らに、可及的速やかにしかるべき金額の損害賠償を実施すべきである。
なお、できるだけ広範囲の被害者らに対し可及的速やかに損害賠償を実施するためには、立法によることが望ましい。
日本国内ではすでに、補償立法の案として、主に国会議員らにより作成されたいわゆる民主党案、同じく日本共産党案、同じく社民党案、及び戦後補償被害者弁護団連絡協議会の弁護士らにより作成されたいわゆる要綱案の四案が成文となっており、二〇〇〇年一〇月三〇日、前三案は法案として正式に参議院に提出された。いずれかの案に準拠すれば早期の立法が可能だというのであれば、その案に準拠するのが妥当であるが、四案のうちいわゆる要綱案は、各被害国において日常的に戦時性暴力被害者の支援活動に当たっている現地のNGOを通じ、被害者らの意見を聴取それをも反映して起案されたものである点において、優れている。
61、将来の戦時性暴力被害の再発防止のために、必要にして十分な措置をとるべきである。将来の戦時性暴力被害の再発防止のためにまず第一になされなければならないことは、学校において子供たちに対し、過去の戦時性暴力被害の無惨な実態とその加害責任の重さをきちんと教育することである。そのためには、最小限度でも、学校において使用される歴史教科書にそれらのことがきちんと記載されていることが必要である。
しかし、2000年9月10日の毎日新聞の報道によれば、日本国の小中学校で2002年度から使用される予定の8出版社の歴史教科書が、文部省に検定申請に出された段階ですでに、そもそも「慰安婦」に関する記述のあるものがこれまでの7社から3社に減少していたり、記述があるにしても加害者の視点が大幅に後退していることが明らかになった。文部省によって検定意見が付された結果そうなったのでなく、検定申請に出される段階でそうなっているといういわゆる自主規制である点で、右翼やいわゆる自由主義史観の者たちから教科書出版社に対する何らかの政治的圧力があったことが強く疑われる。
日本国政府は、文部省を通じ、むしろ過去の戦時性暴力被害の無惨な実態とその加害責任の重さをきちんと教科書に記載すべきであるとの検定意見を各出版社に出し、後代に対する歴史教育の責任を果たすべきである。
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