Mari Takenouchi, a journalist and the blogger of Save Kids Japan & World Known as a Japanese single-mother journalist covered by Reporters Without Borders in 2014 on the criminal accusation case for a tweet. My twitter account is @mariscontact (under control and rarely gets retweeted) To order a new book by Mari Takenouchi and Dr. Bandazhevsky, send me an e-mail at takenouchimari@gmail.com Twitter: @mariscontact 私の主なブログは以下です!!ご覧ください!!! See my blogs below!! ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

2024年9月8日日曜日

ボーイング社の日航123便はなぜ墜落したのか(森永卓郎「書いてはいけない」三五館シンシャより):自衛隊誤爆→Boeing社に押付け→米国に借りを作り日本経済崩壊?

 1985年8月12日、日航123便の群馬県御巣鷹山の屋根に墜落、乗客524名中520名が死亡、単独機として世界最大の航空機事故。

墜落直後は4人のほかに多くの乗客が生きていたことは生存者の証言で分かっている。以下に述べるように、直後の米軍からの救出が実行されていれば、多くの人命が救われたことは間違いない。

なぜ日本政府は救援を断ったのか?

ボイスレコーダやフライトレコーダーの開示を求めた裁判で、 2023年6月、東京高裁は、遺族の吉備素子の訴えを棄却。(遺族はボーイング社と日本航空と和解した際に、それ以上の請求をしないという約束をしたためという理由)

2024年、最高裁判所で今もレコーダーの開示は審理中である。 

(ただし、大問題のマスコミ!この国家的な大問題である情報開示請求裁判を報じているのは、地元群馬県の上毛新聞のみ!)

 元日本航空乗務員の青山透子さん(のちに東大博士号取得)は、独自に調査し、5冊もの本を書いた。

多くの遺族も 吉備素子さんの後ろにいるが、精神的負担やその他の困難で出てこれず、一人闘っている。

 

9年後のテレビ朝日で報道があったのちに、TVや新聞の大手メディアは疑惑の追及の代わりに、疑惑を封印し、運輸省航空事故調査委員会の報告書がつくったストーリー通りの記事や番組ばかりが登場。(例:日本テレビ系の「世界仰天ニュース」2023年11月14日) 

ただし、元客室乗務員でのちに東大で博士号を取得した青山透子氏の『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社)出版から、真実の追及が始まった。


以下時系列

1985年8月12日

18:12 羽田から大阪板に空港に向けて離陸

18:24 機体後部で爆発(JAL123の尾翼に自衛隊が誤射の可能性。同時に油圧系破壊)

18:24 機長、緊急事態発生で羽田に戻る要請 するが、油圧系破壊で自由操縦不可能に

18:31 緊急事態のため、管制官が日航機に日本語で話しても構わないと指示。

18:31頃 横田米軍基地へ緊急着陸するとの通信 (ブラジル新聞パウリスタ)

東京のAP通信員のRichard Pyle氏:US officials at Yokota Air Base, and American base about 21 miles west of Tokyo, said the pilot asked and received permission to make an emergency landing.  

JAL123、高度を下げながら横田基地目前にして、なぜか北へ進路を変える。

(無事横田基地に着陸したら、自衛隊の誤射がばれてしまうから?当時は中曽根康弘内閣が防衛力強化を目指していた)

機長「このままでお願いします」「これはダメかもわからんね」

直後に、米軍輸送機Cー130の航空士Michael Antonucciマイケル・アントヌッチ氏が、123便から発信された日本語をキャッチ

18時?分 JAL123、長野県川上村のレタス畑での不時着を試みる(住民が石を投げれば当たる高さに)ところが報告書には川上村への飛行はなかったことに

18時?分 墜落直前に2機の自衛隊のファントム機がJAL123便を追尾(複数証言)

18時?分 (長野県南相木村の住民3人の証言)JAL123の後を流れ星のようなものが追いかけた。( 自衛隊機が民間機を撃墜?第四エンジンが粉々になっていた)

18:56 墜落(実際は、長野県ではなく、群馬県に墜落したが、5時間近く長野県に墜落したという偽情報が流された)

19時5分 自衛隊の百里基地からファントム機がスクランブル発進したという記録があるが、墜落直前の追尾証言と時間が合わない 

墜落場所を最初から把握していたにもかかわらず、自衛隊と日本政府は、なぜ墜落場所を公表せず、翌朝まで捜索隊が到着するのを遅らせたのか?証拠隠滅しようとしていた可能性。

20時過ぎ 文化放送(ラジオ)の大村公夫記者、長野県北相木村役場に到着。消防や警察が捜索に向かう途中で、山の向こうから赤い夕焼けのような火が見えたと、文化放送で第一報を流す。 

20時半 「横田基地から救難ヘリが現場に向かう」とC-130のAntonucci氏が聞いた

21時半くらい  C-130が旋回中、キャンプ座間から米陸軍のヘリUHー1がやってきた。あの状況でロープを垂らして隊員を地面におろすのは可能だった。木の梢からわずか15mのところまで下りていて、横田の司令部から許可をとろうとしていた。(C-130の機長、ジョン・グリフィン氏の言葉)

同C-130副操縦士、ゲーリー・ブレイ氏「この件についてカメラでのインタビューは無理。私はまだ軍と深く関わっていますから」

21時半くらい 日本の航空自衛隊も同じくらいの時間に救難ヘリV-107を発進させているが、 当時の中部航空方面隊司令官の松永貞明氏は「聞いていない。真っ暗な中ロープで降りるのは自殺行為」としている。(米軍の専門家によれば、サーチライトもあれば、80年代から夜間暗視装置も装備されているので夜間は問題ない、垂直効果も救難隊ならだれでもできるとのこと)

生存者の落合由美さん(墜落直後に人の声やヘリコプターの音を聞いたと証言)「ヘリコプターの音が・・・ずっと手を振っていたんですけど、気が付いてもらえなかったのか、ここまで来ることができないのか、と思いました。」

在日米軍最高幹部(匿名)のことば:事故当日、かなり早い段階で日本の自衛隊が米軍の救難援助を断った 

軍事評論家の小川和久氏「当時の日本政府の中枢にいた人から聞いたが、事故が起きてから約2時間、首相官邸の中で、警察が担当すべきか、防衛庁あるいは自衛隊が担当すべきかで、延々と議論が続いていた。これは主導権をめぐる話でも合った。その間にキャンプ座間の米陸軍のヘリは1時間以上前に御巣鷹山の上空にいたわけで、そこで救助活動が行われたりすれば、警察自衛隊とも立つ瀬がなかった」

1985年8月13日(事故の翌日)

1:30 長野県南相木村が墜落現場と言う偽情報

2:10 航空自衛隊から、墜落現場は群馬県上野村との情報(読売新聞)

4:39 自衛隊が墜落現場を特定 

8:49 救出開始(事故から13時間半が経過)

10:54 地元消防団が生存者発見 

1994年9月25日(事故から9年以上)

テレビ朝日のニュースステーションが、救助の真相について元米軍人マイケル・アントヌッチ氏の告白を放送。氏は横田基地に駐屯、大型輸送機Cー130のナビゲータだった。

夫を亡くした吉備素子さん、遺体安置所で様々なことを見聞きし、高木日航社長を含む日航の人々、運輸省、群馬県警の河本本部長などの言葉や態度に疑問を持った。

2017年 JAL元客室乗務員の青山透子氏の『日航123便 墜落の新事実』を出版。森永氏が書評を出そうとしたが、大手新聞社系では書けず、タブロイド紙や雑誌のみで書けた。 また何本もレギュラー番組を持っていた氏はテレビやラジオ番組での紹介もお願いするもすべて拒否された。


***青山透子『日航123便墜落 遺物は真相を語る』より衝撃的事実**

*現場はガソリンとタールをまぜたような強烈な異臭(ジェット燃料の主成分はケロシンと言って灯油に近いもので穏やかに燃えるはず。一方自衛隊が使う火炎放射器はガソリンとタールを混ぜたゲル化燃料)

*遺体は木炭のようなカリカリの状態に完全炭化。

検死担当医師「まるで二度焼したようだ」

*4人の生存者は、墜落現場から少し離れたスゲノ沢の中で消防団が発見。

*青山氏、なんと上野村が保管していた日航123便の遺物を化学分析→ベンゼンが検出(航空燃料にはベンゼンは含まれていないが、ガソリンには含まれている)さらに硫黄濃度などから、遺物を溶かしたのは、航空燃料ではなく火炎放射器の燃料であることを科学的に証明

*特殊部隊が証拠や承認をすべて焼き払うには一定の時間が必要になる。「墜落現場が特定できない」とうそをつき、メディアを混乱させた?一方、一般の自衛隊員は夜間待機だった。

 

***機体に何が起こったのか***

*運輸省航空事故調査委員会の報告書「圧力隔壁説」はでたらめ

*実際は尾翼後部になんらかの飛翔体が衝突し、油圧系統を破壊(乗客が窓の外の写真でオレンジ色の飛翔体ー陸上自衛隊のSSM-1の可能性)

*航空自衛隊百里基地の稲吉司令官は軍隊で同期の友人の岩田裕次郎氏に「えらいことをした。標的機を民間機(JAL)に当ててしまった。今、百里基地から偵察機2機に追尾させているところだ。」

* 自衛隊出身のJAL123高濱機長も、爆発音のわずか3秒後に緊急事態を知らせる「スコーク7700」を発進し、非常にまずい事態が起きたことを瞬時に理解した可能性

 

****123便の後に日本経済も墜落***

日本政府はJAL123便の墜落をボーイング社に押し付け、大きな見返りが必要となった?

123便の墜落からわずか41日後の1985年9月22日、NYのプラザ合意で急激な円高、1ドル240円が120円に。景気後退へ(中曽根内閣時)

1986年9月、事故からほぼ1年後、日米半導体協定の締結(世界シェアで50%を超えていた日本が現在は10%を割り込む) 

日銀による急激な金融緩和と大きな貸出枠で円高不況に対抗→不動産バブル +投機目的の融資→1990年初より暴落→大蔵省と日銀、バブル崩壊後もなぜか引き締め政策→地価は90年から2000年に5分の1に。

日本は1980年代前半まで、株式の持ち合いや不動産担保金融の存在で、外資系企業がほとんどない企業だった(IBMとコカ・コーラくらいか) 

2001年4月、自民党総裁選で天才的話し手の小泉純一郎「私は自民党をぶっ壊す。構造改革だ!」

2001年9月 米同時多発テロ→ブッシュ小泉会談「小泉:新法を準備してでも自衛隊を派遣したい、ブッシュ:不良債権処理を実行してほしい」 →以後、日米の年次改革要望書、日本はアメリカの言いなりに

2002年9月30日 小泉首相、柳沢金融担当大臣を更迭し、竹中平蔵を大臣に。郵政民営化と不良債権処理を行う

(米国の目当ては郵便貯金200兆円、投資信託に誘導、今の株式相場は史上最大規模のバブルになるだろう) 

竹中大臣による大手30社問題と逆粉飾決済で、UFJ銀行は処理する必要のなかった不良債権処理する羽目になり、東京三菱銀行と合併するなど、日本の企業が二束三文でハゲタカに売り飛ばされた

(JAL123便墜落以後、日本が受け入れた経済政策の結末)

*合わせて森永卓郎著『財務真理教』もおすすめ。





 

 

 

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