2019年9月8日日曜日

アフガニスタンに命の水を~中村哲氏沖縄講演













講演後に購入した中村哲医師の本。数々の賞を受賞した「すごい本!」です。講演会の帰りに、受付に並んでいた本を見ていたら、アフガンで活動を共にしていたという若い青年が、「いちおし」してくれたのですが、さすが、その価値ある、本当にものすごい本です。(その青年は赤ん坊をだっこしながら受付をしていましたが、今はご自身のお子さんが幼いということで日本にいるようですが、将来、中村医師に何かあったら、アフガンにまた行くと言っていた、とても良い顔をした青年でした。ああいう立派な青年が中村医師の素晴らしい活動を将来引き継いでいくのだろうなあと感じていました。)

昨日、アフガニスタンに1600もの井戸を掘ってきた中村哲医師が沖縄キリスト教学院大学で講演されました。本当に素晴らしいご講演でした。久しぶりにパソコンを持ち込み(前回このようにパソコンを持ちこみ、このように講演メモを取ったのは、2013年東京に、チェルノブイリの医療活動及び研究における第一人者バンダジェフスキー博士http://takenouchimari.blogspot.com/2013/07/721.htmlが来た時以来かもです)、講演メモを取ったので、掲載いたします。

97日 「アフガニスタンに命の水を」中村哲医師
(沖縄キリスト教平和総合研究所、大学コンソーシアム沖縄 県民向け公開講座) 

(紹介)1946年生まれ、九州大学医学部卒業 1984年ハンセン病患者の治療のため、パキスタンのペシャワールへ 91年アフガニスタンに難民のための診療所開設 98年 基地病院PMS(ピースジャパン・メディカル・サービス)をペシャワールに設立、パキスタン山岳地で巡回医療、井戸の数16002002年春からアフガンにおいて緑の大地計画、土木工学を独学、20103月、27キロの用水路を完成。「農業で忙しくして戦争をしている暇はない。大事なことは生きることです。命こそ大切です。」第一回沖縄平和賞受賞

(中村哲医師ご講演、竹野内のメモ)
沖縄には、23回来ている。
35年前にペシャワールに赴任して医療活動、現在は川の中で河川工事。
なぜ医療団体がアフガニスタンで河川工事をしなければならないのか。
病院の院長が重機を使わねばならないのはなぜか?

アフガニスタンは日本にとってなじみはうすい。
日本から西に6000キロ、地球の乾燥ベルト上にある。ネパールのヒマラヤ山脈7000メートルの西端が、キンズーツク山脈で、アフガニスタン。日本の1.7倍の国土の8割以上が高山。有名なことわざに「金がなくても食べられるが、雪がなければ食べていけない。」
2000万人の9割近くが自給自足の農業。雪山は水の源。
最近山に異変が起きている。雨はほとんど降らず、ジャララバードでは年間200ミリくらい。沖縄の12時間程度の降雨量が年間降雨量だ。

水さえ降れば、植物は豊かだ。450年前まで自給率100パーセントの国であった。
多民族国家で谷ごとに、異なった集団が住んでいた。地方自治が徹底している。

私たちはアフガン東部で活動している。パキスタンと民族も言葉も同じだが、今は内乱が激しく、主にアフガニスタンで活動している。国民の100%がイスラム教で、個人の宗教としてだけでなく、地域と地域を結ぶものとなっている。
金曜礼拝は必ずし、人々が交流、もめごとはすぐ解決する。日本人にはわかりにくいだろう。

国の貧富の差が激しい。アフガニスタンでも金持ちは、たいした病気でなくとも、NYやロンドンにすぐに飛んで治療を受ける。しかし多くの人が数十円というお金がなくて死んでいく。外国人とはよくもめる。よく外国人が逃げて行ってしまう。

私たちは現地の社会改革はしようとしていない。命を守ろうとしているだけだ。ただ違いを遅れているとか進んでいるとか、善悪で裁くのはおかしい。現地の風習や習慣は、私たちがおかしな目で見ないこと。それが方針だ。

32年前に、はんせん病根絶5か年計画。当時はハンセン病・らい病の根絶への機運が高まった。現地に行ってびっくりしたのは、治療センターを建設するはずであったのが、千数百名の患者に対し、16床のベッドしかない。医療器具もない。そこでペシャワール会の募金活動を活発にするようになり、現在に至る。

赴任した当時は内戦が始まったときであった。1979年ソ連軍のアフガン侵攻、9年間の内乱、200万人もの死亡。国民の10パーセントが死亡、600万人が難民としてパキスタンやイランなど隣国に逃れた。

医療方針の大転換をし、アフガンの農村部に医療拡大。ハンセン病だけでは成り立たない。特定の病気だけでは仕方ない。結核、マラリア、アメーバ赤痢などあらゆる感染症がある。現地では、ハンセン病に対する偏見が少なく、特別な病気でない。一般診療をすべきである。
農村地域の医療モデルを作りたかったのである。

ヌーリスタン山村には、ペシャワールから片道1週間。取材対象は都市部か戦争場面ばかりで、外国人の新聞記者は来ないような場所で診療。

そのうちソ連軍が撤退、まもなくソ連が崩壊。その後、次々と診療所を開設。
欧米から支援を受けたゲリラグループが首都に進出。カブールが一時廃墟。これを抑えてタリバン政権が台頭し、私たちはホッとした。ソ連が支配していた時期のほうが治安が良く、ソ連撤退後は強盗などの犯罪が多発。診療所も実際襲撃された。

2000年夏、大干ばつという異変が起きた。実際に診療所の目の前から村々が消えていった。物理的に緑の村落が消滅していくのを見た。WHO報告によると飢餓線上が400万人、餓死線上が100万人。今も干ばつの地域は広がりつつあり、私には訴える義務がある、と思った。

子供の腸管感染症、赤痢、チフス、コレラが大流行した。子供が次々と死んだ。水がない。子供が衰弱。赤痢にかかっても、ころりと死んでいった。若いお母さんが何日もかけて我々の診療所に来た。外来に待っていても、待合室から突然叫び声が聞こえ、子供の息が絶えてしまうことが日常的に起こっていた。医療というものはいかに無力か。いくら薬をもっていってもおなかの減った人、のどの乾いた人には食料や水が最高の薬なのである。清潔な飲料水と十分な食料が大事なのだ。

20008月から枯れ井戸を再生し始めた。その後1600もの井戸を掘り、現地の人々が村で暮らせるようにした。

2001911日、当時、米ブッシュ大統領の時代、NYで同時多発テロが発生。翌日から実行犯とみられていたアルカイダをかくまっていた、というだけで、アフガンに報復爆撃が始まろうとしていた。ほっといていても、アフガニスタンは息も絶え絶え。そこに爆弾を落とすのか。といっても私たちの意見は少数意見。私は日本と現地を行き来しながら、募金活動をした。

10月から空爆開始、首都爆撃が間近に迫る中、異様な光景を目撃した。カブールは標高が高く、冬は寒い。裕福な市民はほとんど国外へ避難。貧しい残った人々は1割以上、生きて冬は越せないだろう、と思った。私たちは1800トンという20万以上の人々が飢えない量を届けた。

皆がTVをかじりついて戦争を見ていた。高校野球やサッカーを見るように、軍事評論家といわれる人々が「米はピンポイント爆弾で一般市民には迷惑をかけていない」などと真実でないことを平気で言っている。実際は女子供、年寄、体の不自由な人が真っ先に犠牲になっていた。一発の高性能爆弾で私たち20名もやられる可能性もあったが、無事、食料を提供できた。私のみではなく、職員らの手で、人々への食糧配給ができたのである。その後タリバン政権は崩壊した。

「極悪非道のタリバン政権」を打ち破った、という嘘ばかりがデマ報道されていた。自由を享受し、ブルカを脱いだ女性たちの姿がTVに映っていた。そしてアフガンは世界から忘れ去られていった。

実際は何が起きていたか。タリバン政権時代にケシ畑はなくなっていたのが、米軍とともにケシ畑が復活した。自由といっても道端で乞食をする自由。若い女性が外国軍に売春をする自由といったものだった。

私たちはまずは人々の命を助けたかった。カレーズという地下水を灌漑する方法。名前はカレーズでも枯れていく。掘っては枯れ、掘っては枯れ。地下水脈そのものが少なくなっていった。

2003年、緑の大地計画を立てた。マリワリード用水路の建設。100の診療所よりも一本の水路。27キロの水路で15万人が生活できた。計画立てるのは簡単だが、作るのは大変。つるはしとシャベルしかない。お金がたまってから作るのはどうか?と考えるだろう。アフガンの農村部には政府の手が行き届かない。物資も技術者、外国団体が怖がってこない。

用水路を維持して子孫に伝えるのは地元の人たちだ。地元の人々の手で作り、維持できる用水路を目指すべきということで、大幅な設計変更ができた。アフガンの現地で電気が使える場所はほとんどない。

日本とアフガンに残っている昔からの技術に注目した。日本とアフガンの河川は急流。農業の土地も谷などで狭い。灌漑をする点で似ているはず。できるだけ現地の技術と資材を使うことにした。220年前に作られた筑後川の斜め堰など。アフガンにも似た設備がある。

アフガンの農民はみな、熟練した石職人。川の堰が現地の人で作れた。柳を植えると水草も生え、魚が住み、生物多様性に申し分なく、メンテナンスも申し分ない。柳の根っこが石の隙間に入って川の堰が壊れない。昔の人々の知恵に支えられた。石油を買う金がないから水車を作った。外国人はいつかいなくなるので、現地で作るものは自分たちで、自分たちのやり方で作るのが良いのだ。

着工から3年くらいで砂漠化した村々に水が届き始めた。砂漠化した村が緑で覆われ、復興していった。案外復興が早くて我々自身がびっくりした。ガンベリ砂漠は摂氏51度や52度にもなる。熱中症で倒れる人が続出した。誰も手を休めず作業。日当も出した。彼らの願いはたったふたつ。一日3回ご飯を食べること、そして、ふるさとに家族とともに住めること。それがかなわず、難民化した人々。

10年前の200989日か10日に用水路の試験開通テストをした。水が流れるのを見て、住民らが私のもとに来て言った。「Dr、これで私たちは生きていける。もうこれで何もいらない。」これが真実なのである。

その後、日本海側によく植えてある松林をアフガニスタンにも持ってきた。松林は観光用と思われているかもしれないが、もともと農地を守るためのもの。砂嵐をふせぐ、アフガンに植えた松林は、今は10メートルとなって緑の地だ。砂漠では田植えもできるようになった。野菜、果物、まきも取れる。15万人の難民化していた人々が戻ってきた。

ところがこれで終わりでない。温暖化の問題が出てきている。干ばつは温暖化以外に考えられない。戦よりも食糧自給。進行すると干ばつで滅びる。春の降雨量30%減少。60年で1.8度上昇。

アフガンは内陸部で二倍の速度で温暖化が加速している。雨が局在化して降っている。気温が急激に上がると山の雪により、記録的な洪水が起きる。洪水の後は、山の雪がなくなるため、川の水位が低下する。地下水も、鉄砲水は増えても、水が浸透する時間がないので、結果干ばつとなってしまう。大きな川からも水が取り込めない状態になってきた。

このような気候変動に影響を受けない灌漑用水を建設をしなければなりない。次の課題は取水設備の研究、洪水にも渇水にも耐える取水堰。福岡県朝倉市の斜め堰をモデルにした。地元の人々が工夫したものは、水を必要以上に余計にとりこまない、ほどほどのものである。めぐみに応じた水の取り組み方法を我々も再現した。

35年の後半は干ばつ対策に明け暮れてきた。そして圧倒的な地域の支持を得て地域の協力者が増えた。協力者の数はのべ100万人以上、数百人以上が我々とともにいる熟練工といってよい人々だ。

昨年度から訓練を広げる訓練所を開講。昨年2月にアフガン政府も、私たちの方法を基準として取り入れ、私たちも、さらに前進している。大干ばつ、空爆にもかかわらず、東部復活計画がほぼ達成。次にはこの地域から全国展開しようとしている。中央からの展開は地域を必ずしも考慮しないこともある。逆に地域から全国へ展開していくのだ。

最後に、人間と自然が折り合って生きなければ、我々の将来は暗い。化石燃料に頼って、消費と生産を繰り返し、自然から無限に搾取する時代は終わった。私たちはどこに行こうとしているのか。大きな視点で眺めて、自ら自分の将来を考える時がきた。ことはアフガニスタンだけの問題ではない。

(以上で、ご講演終わり。次は質疑応答から主だったご回答をメモしました)

(現地の人々の公衆衛生や健康状態について)
水が来てから子供がころりと死ななくなった。腸管感染症だけでなく、マラリアなどに対しても抵抗力が高まり、病気で死ななくなった。手を洗うなど、公衆衛生教育もしているが、田舎のインフラはとにかく水に尽きる。一方、アフガンから留学生を日本に送ると戻ってこなくなる。MRTCTその他のハイテク技術のある先進国にとどまってしまうのだ。教育というのも、進んでいればなんでもよいということではないと思う。

(日本の今をどう思うか)
地理条件が似ている日本だが、農村に元気がない。日本は水はいくらでもあるのに、元気がない。どんな原因があるのか。若い人が農村に居つかない。教育によって、農業よりも商業や都市の華やかなものにあこがれる。お父さんお母さんを捨てて、職を求める。アフガンでも、首都カブールでさえ職がないので、ヨーロッパに逃げていく。その結末が日本だ。食料自給率が30パーセント。金出せばなんでも買える。そういう傾向が増えていて、それが世の中のまっとうな流れのように思われていることに、私もショックを受けている。今は外国人労働者もお金で連れてくる。でもお金がなくなったらどうするのか?敗戦当時、日本人も庭に野菜を作っていたが、その元気はどこに行ったのか?日本中が農業を復興させるのが大事になるのでないのか。アフガンの人々の水を持ってきて喜ぶ状態とは全く違う状態が日本にある。教育も社会も変えないととんでもないことになるのではないか。

(今後の計画について)
アフガンでは今まで地域が一丸になっていたからできた。よその地域でマニュアル的に広げることはできないと思う。まずは隣接地帯に拡大するのが一つのやり方ではないか?我々の作業員自身がかかわれる。中央政府が出てくると大体の計画がダメになる。役人そのものが交代制なので、その地域に対して責任感がない。相当長い間、我々自身がいなければならない。20年は継続したい。ただ私はずっと生きていけるわけではない。今現在は6万ヘクタールのモデル地域を作るのが、大きな仕事で、これには自分も関われる。

温暖化は絶望的だ。政府や外国団体が怠けていたとは思わないが、でもことごとく失敗してきた。私たちの事業は唯一成功し、希望となっている。その意義は減らない。今後20年は最低やっていきたい。具体的には、現地の経済も自活できるようにしたい。このプログラムも完成させつつ、日本の支援も受けつつ、20年は続けたい。

(医者としての心構えについて)
医者として常に考えていなければいけないのは、患者が何を考え、何が苦しいのか、どうしてほしいのかをくみ取る医療関係者でなければならない。これは海外にかかわらず、日本国内も同じ。相手の気持ちがわかること。聞くことができる人。私自身も医者にかかることがあるが、患者の要求を全く理解せず、「なんだろう、この医者は?」と思うことがある。

私たちの場所は、60万人以上住んでいるが、今パキスタンに避難民受け入れができないので、うちの場所に来ている。うちの地域は治安は最も良い場所だ。銃を握って戦っている人々は食べられなくて、傭兵になっている。そのために治安が悪くなる。うちの作業員の中にも銃を握っていた人も珍しくない。

(地域を変えるという意識について)
計画を実行するには、まずは信頼が最初。技術より始めに信頼。
政治的なことはややこしくする。
女性の立場云々は、現地の人に任せるべきだ。
私たちがやるのは命を守ることのみ、それからは現地の人に任せる。
アフガンは女性と握手もできない社会。本来ばちばち女性の写真も撮れない社会だ。
私たちの活動に女性が全く写真で出てこないと疑問を持つ人がいるが、そうではないのだ。
だいたい農村では、一番厳しい女性の労働は、水くみ。干ばつの時は毎日56キロを往復しなければならない。だから我々の活動の一番の協力者は女性だ。

教育についてだが、教育が浸透すればするほど、若い人が年寄を捨てて逃げていく。ここまで考えなければならない。

(自分の生活を犠牲にして危険を冒し、なぜここまで活動を続けられるのか)
意欲がある人はたくさんある。
ただ条件がそろわないとできない。
自分の場合は、すんなりとできた。
空爆の直後、基金がたくさん寄せられた。7億円くらい。
何に使うか?水をなんとかすること、これだ!と思った。その前に10年も診療所をやっていたから、信頼関係があった。

意欲は続かない場合もあるが、私の場合、もう条件的に逃れられない。
医療よりも用水路建設のほうに今は夢中になってしまっている。

いろんな人の思惑や状況がこうさせた。
プレッシャーが継続のひとつ。
皆さんの募金だけで今まで20億円以上集まった。
これだけ募金が集まると、よっぽどの悪党でないと逃げ出せない。

(素晴らしいご講演、ありがとうございました!!)

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