2018年5月3日木曜日

スターングラス博士のこと

私が最も尊敬している科学者の一人、米国の物理学者アーネスト・スターングラス博士について、3・11の10日ほど前に書いていた原稿がありました。博士から送られてきた写真と共に、こちらに掲載します。広島・長崎の被害についての真実と異なる論文を読んだ後に、メインストリームから方向転換したくだりも書きました。3・11直後には、私に、無事を気遣うメールも送信して下さかった方でもあります。博士は残念なことに、2015年2月12日、91歳でご逝去されました。

(ちなみに私が最も尊敬しているもう一人の科学者は、ベラルーシ出身、現在ウクライナで研究活動を続けているバンダジェフスキー博士です。http://takenouchimari.blogspot.jp/2013/07/721.html)バンダジェフスキー博士の最新論文はこちらから。英語にするタブはついているのと、最近はGoogle翻訳もよくなっているので、日本語に直して読んでみてもよいかもしれません。chernobyl-health.org


スターングラス博士の活動の軌跡



1.アインシュタインとの出会い

スターングラスの最新の著作は1997年に発刊された本で『Before the Big Ban-The Origin of the Universe(ビッグバンの以前にー宇宙の創生)』というものだ。意外なことに、放射線研究とは異なる分野のものである。スターングラス博士はわずか12歳の時には既に、「陽子の周りを回る電子の軌道のサイズはどうやって決まるのか」という疑問を持っていたそうだ。そして大学院生時代に電子に関しての独自の理論を手紙に書いてアインシュタインに送ったところ、驚くことにその一週間以内にプリンストンの自宅に招待されたという。この時アインシュタインはスターングラス青年のもつ理論に感心して耳を傾けながら来客をキャンセルしつつ5時間も話し込んだという。(詳しくはレスリー・フリーマンの『核の目撃者たち』を参照。ちなみにこの時のスターングラスの電子に関する理論は現在では正しかったことが判明している。)

その時アインシュタインが若き日のスターングラス少年に言ったことが、「君の豊かな想像力をつぶさないように、学問の探求を続けなさい。ただ天才は毎日天才でいられるとは限らない。生活のためには地に足が着いた仕事を持っていなさい。そうすればプライベートの学問の探求には間違いをしても大丈夫なように。」だったそうだ。スターングラス博士にとってアインシュタインのこの言葉は非常に役に立ったという。彼の子供時代からの夢であった学問が、宇宙の始まりについて探求することであり、それは半世紀の時を隔てて、独自の理論を冒頭の本に著した。そしてスターングラス博士にとって地に足のついた着実な仕事が放射線の研究であったわけだ。

 

2.2歳半の長男を失って

スターングラスは1923年ベルリン生まれ。両親とも医師で、スターングラスが14のときにナチスの迫害を逃れて米国に渡った。16歳のときコーネル大学に入学し、電子工学を学ぶ。その後海軍に志願し、攻撃艦隊に乗って日本に出向しようとした時、広島に原爆が落とされる。

1947年、スターングラスにとって人生の転機が訪れる。ひとつは冒頭にある、アインシュタインとの出会いだが、スターングラス青年は、アインシュタインがルーズベルト大統領に原爆製造を勧める手紙を書いたことに大変な罪悪感を感じ、この上もなく不幸であることを知る。この時、スターングラス青年は、自分の仕事は、核兵器の危険性を大衆に警告することが自分の人生の一部になるであろう事を感じたのである。同年に起こったもうひとつの非常に大事な出来事が、生まれたばかりの長男が、遺伝性障害があったことだった。結局その子は二歳半で亡くなってしまい、この時スターングラスは皮膚科の医師であった父がX線を過剰に受けていたのが原因かもしれないと疑う。(1920-30年代は、ニキビや白癬病にX線を施すのが一般的であったという)

1952年、スターングラスは、米の原子力二大企業のひとつであったウェスティングハウス社に入社、低線量で使えるX線装置、宇宙撮影のための受像管など原子力計測機器の開発に携わり、月衛星計画の責任者にまでなった。

この間、スターングラスにとって放射線の危険性に気付かせるいくつかの出来事があった。ひとつは、1957年にオックスフォード大学予防医学科主任のアリス・スチュワート博士によって発表された妊婦へのX線透視により小児白血病やガンが増えているという研究であった。1961年、核戦争の恐怖が高まっていた時期に、スターングラスは死の灰が健康に及ぼす危険について研究を行い、核実験により乳児死亡率と小児ガンの発生率に重大な増加があることを発見し、妨害されながらも1963年、サイエンス誌に発表。おりしも同年、ケネディー大統領による部分的核実験禁止条約の批准に向けた議会公聴会が行われ、スターングラスは低レベル放射線の胎児への影響について発表をしたのであった。

 

3.広島の論文がキャリア変更の動機に

1966年の終わり頃、ウェスティングハウス社に在籍したまま、スタンフォード大学で理論物理学の仕事をしていた時、スターングラスの手元に広島・長崎についての研究論文が届き、そこには、「放射能を余計に浴びた親から生まれた子供に、白血病やその他の被曝による影響がより多く見られることはない」とあった。しかし、論文では、爆心地から2000メートル以内にいた両親と、2500から3000メートル以遠にいた両親の子供を比較しており、郊外に落ちた死の灰の影響が考慮されていなかった。

この時、スターングラスは、大衆が死の灰による放射線の影響について知らされずにいる状況を放っておくわけにはいかないと強く感じ、放射線が胎児に与える研究に没頭しようと決意する。おりしもその年、スターングラスはペンシルバニア州ピッツバーグ大学放射線科主任から移籍を依頼されていたのであった。

 

4.原爆をダイナマイト代わりに!?

ウェスティンハウス社でのキャリアを全て捨てた翌年の1967年、早くもスターングラスの活躍の場がやってきた。当時、米国は原爆を平和なものに見せるために「プラウシェア計画」というものを推し進めており、現在では考えられないことであるが、原爆を全米各地でダイナマイト代わりに使おうとしていた。そのひとつとして、広島型原爆をペンシルベニアの真ん中の地下900メートルで爆発させ、天然ガスの貯蔵空間を作ろうとする計画があった。スターングラスは知り合いの新聞編集者に頼まれて、米国東部一帯における白血病とガンの急増を計算して論説を書き、さらに200-300人の聴衆のいる会合で発言したことがきっかけとなり、市民らの大規模な反対運動が起こり、知事の署名まで済んでいた計画は中止となる。

 

5.原子力委員会内部造反のきっかけとなる

1969年、妨害にあいながらもスターングラスは、核実験による死の灰のために全米で約40万人の乳児が死んでいるという研究論文を発表し、大きな反響を呼ぶ。ちょうどその頃、弾道弾迎撃ミサイル計画を議会に通過させようとしていた原子力委員会は、スターングラスの論文を委員会管轄下の研究所全てに送って反論を準備しようとしていた。そこでこの役目を引き受けたのが、原子力委員会のローレンスリバモア研究所の副所長兼生物医学部長のジョン・ゴフマン博士と部下であるアーサー・タンプリン博士であった。

しかし、この体制側の中枢にいた二人の科学者は、犠牲者の数は40万より少ない4000人であるとしながらも、原子力委員会の意向に反し、核実験によって数千人の乳児が死んだと発表したのだった。(ゴフマンによると、スターングラスのこの時の数値のほうが、数年後になって正しかったことが判明したという。当時原子力委員会は、数千人という乳児犠牲者数を、あまり大衆が読まない専門誌にのみ発表するようにと説得したが、両博士はそれに従わず、公けにした。その後、ゴフマンとタンプリンは、許容量以下でもガンの発生は被曝線量に比例して起きるものであり、公衆に対する被曝量は、十分の一、もしくは、ゼロに引き下げるべきであると、原子力委員会に対して公然と批判するようになる)

 

6.原子炉からの放射能でも乳児死亡

ウェスティングハウス社でガス冷却原子炉の仕事にも携わっていたスターングラスが、本格的に原子炉に対する信頼を失ったのは、1970年のことだった。原子炉からの公になっている放出放射能の数値をたまたま知り、その量の多さに仰天したのであった。この時、スターングラスが注目したドレスデン原発は、米国で火力発電と競争できるくらい安価で、構造がより単純な沸騰水型原子炉であったが、原子炉に近くなればなるほど赤ん坊が多く死亡しているのを発見したのである。特に原発の排気塔から出る放射性ガスによる発達中の胎児の肺の発育不全は深刻な問題であった。(この研究は、日本のI.M.モリヤマによっても行われている。)また、原発からの排水が流れる川の下流でも、乳児死亡率が増えていた。原発よりも放出物が桁違いに多い再処理工場にいたっては、160kmも離れた下流でも、増加が見られていた。

スターングラスのこの発見は、デグルート、レイブ、ラインハルト、ケイ博士など複数の科学者により確証されたが、彼らの研究は、政府高官による圧力で出版を目前に原版が破棄されてしまったという。問題は沸騰水型原子炉に限られていなかった。1973年、かつてスターングラスが勤めていたウェスティングハウス社の初の商業用加圧水型原子炉であるシッピングポート原子炉でも周辺における乳児死亡率が上昇していた。公聴会で説明をしていたスターングラスは、低線量の死の灰で、なぜ乳児死亡が増加しているのかとの質問に、「ペトカウ効果」を理由として言及している。さらにスターングラスは、当局がもともと死亡率の低い地域での統計を巧みに利用し、原発周辺で死亡率が高くなっていないように見せかけていたこと、この原発で事故隠しが行われて放射能が放出されていたことを知ることになる。また原発労働者に放射線によって引き起こされやすいガンが多発していることも知り、公聴会で証言を行う。この原発は1974年に水素爆発事故を起こし、運転停止となるが、その2年後には、乳児死亡率は最低値に減少したのであった。

 

7.米国における学力低下

この頃、米国では、反原子力市民団体が結成されるようになる。さらにスターングラスは、放射能の被害は乳児死亡率に限らず、一般の人口にも見られることを発見した。1975年、米国では18歳の青年が受ける学力試験の結果に、大変な落ち込みが見られた。スターングラスは、この青年たちが生まれた1957年に、ネバダで最大の核実験が行われ、乳児死亡率と先天的欠陥の増加がもたらされていたことを知っていたので、放射能の影響があったせいではないかと疑い、教育心理学者スティーブン・ベルと協同で研究を行った。その結果、核実験の風下地域で生まれた子供たちに顕著な学力低下が見られたことがわかったのであった。このように、死の灰が死亡率を増大させるのみならず、一見健康な子供たちにも影響を及ぼしていることに気付いたスターングラスは、ますます社会全体への放射能による影響を案ずるようになるのである。

 

8.スリーマイル島原発事故と隠蔽劇

1979年もスターングラスにとって忘れられない年である。ペンシルベニア州のスリーマイル島原発事故が発生、その翌日にスターングラスは現地での記者会見に呼ばれるが、おりしもその朝、母親から体調不良という電話が来るのである。迷った末、スターングラスは母を兄に任せて記者会見に出席、(電力会社が危険はないと否定する中)妊婦と幼児の即刻退避を勧告した。そして同日、スターングラスは、母が急死してしまった事を知らされるのである。スターングラスの母親は、産科・小児科の医師であり、スターングラスの発見に常日頃心を痛めていたという。スターングラスは母のことを想い、「このようなときでも、自分がおそろしく困っている人々の役に立つことを望んでいたに違いない」と自分に言い聞かせたのであった。スターングラスの主張した退避勧告は翌日になって(遅すぎたのではあるが)知事によりなされ、スターングラスは自分の努力がまったく無にはならなかったことを喜ぶのである。

事故後、スターングラスは独自の調査により、200-300人の乳児過剰死があったと結論づけている。ただし、公式発表では、スリーマイル事故による健康被害は心理的なものだけで観測できる増加はないことになっており、この当局の発表の後、スターングラスは、ABC放送の「グッドモーニングアメリカ」で独自の見解を述べる予定になっていた。しかし、番組出演は直前になりキャンセルとなってしまう。スターングラスの見解は、事故当時ペンシルベニア州保健局長だったゴードン・マクロード博士にも支持されていたが、事故の影響を率直に発表しようとしたマクロード博士は解雇されてしまっていた。

当局によるごまかしや隠蔽の証拠はいくつかあった。当時の知事と政府高官との会話は、後に報道機関に漏れており、原子力規制委員会が公表された数値より実際の線量が高かったことを示していたし、さらに幼児死亡数の統計の改ざんもが二人のテレビ記者によって発見されている。また、州の最終報告書を見ても、原発周辺で事故後に乳児死亡率が急増していることは、その結論とは裏腹に、データから見て取れるものであった。

その後、スターングラスはスリーマイル島事故のエピソードを『Secret Fall Out(邦題:赤ん坊をおそう放射能)』に詳しく記した。『赤ん坊をおそう放射能』を出版した氏は、テレビやラジオを始めとするマスコミや、講演会、各国の委員会などで話をするようになったという。

 

9.「放射線と公衆衛生プロジェクト」の誕生




スターングラスにとって第2の転機ともいえることが、そのような講演会でのJayM・グールドとの出会いであり、その後のスターングラスの活動を大きく広げることになる。環境保護局の科学諮問委員会の委員をしていた著名な統計専門家であり、ビジネスマンとしても成功を収めていたグールドであったが、70歳近くになって、環境と健康問題に自分の専門家としての知識と資材を投じようと決心していたのである。化学汚染物質と米国住民のがん罹患率の研究を行ったグールドは、化学汚染物質だけでは説明のできない別の要素が絡んでいることを見出す。この時スターングラスがグールドに、放射能とがん罹患率の相関関係を調べるように薦めたのである。そして始めは懐疑的であったグールドも、調査を進めるにつれ、核施設の風下でがんの発生がみごとに増加していることを見出したのであった。

この発見は『低線量内部被曝の脅威ー原子炉周辺の健康破壊とえきがく的立証の記録』として発表したまた、スターングラスはグールドと共に非営利団体、「放射能と公衆衛生プロジェクト」(RPHP)を設立し、科学顧問として活動を続けた。(グールドは2005年、スターングラス博士は2015年に死去)

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